解答 01
諸説ありますが、「果処(はてか)」の意味とする説や、「葬処(はふりか)」の略とする説あたりが有力とされる。
他に有力な説としては、生死の間は遥かであることから「遥か」とする説や、「儚し(はかなし)」といった説もある。漢字「墓」の「莫」の部分は、太陽が草の中に沈んで隠れることを示す会意文字で、「墓」の漢字には死者を見えなくする土盛りの意味がある。
日本では、646年の「薄葬令」で墓制を定めて、墳墓の規模が規制された。
墓標を建てる風習は、平安時代に造寺・造塔が盛んとなって、塔を立てる風習が生じたことによる。
角石形の墓標が普及したのは江戸中期以降で、寺院内に墓が造られることが一般化したのは江戸時代以降である。
解答 02
死者を埋葬して供養することは、約50~3万年前のネアンデルタール人にその起源はあるようです。人骨と一緒に花を埋めていた痕跡が見つかっているそうです。
また、お墓として供養を行う起源としては、お釈迦様が亡くなる前に「私の鎖骨は、火葬にしてストゥーパ(塔)を作り、花や香をあげ 礼拝すれば、功徳がある」と言われました。
この卒塔婆(そとうば)供養がお墓の供養の 始まりと『法華経』にあります。
解答 03
お墓とは、故人の遺骨を納め、そこに石塔を建て供養するものです。そして、その時その時の時代で形は変化していき、今の形が現在のお墓と言えます。お墓を建てるという行為は、どちらかというと、宗教的なものよりも民俗的な考え方、あるいは慣習に基づくものといえます。
解答 04
古事記に出てくるイザナミ・イザナギのお話で最後に黄泉の国とこの世を分けた石、千引岩(チビキ岩)が最初のお墓とお寺様にお聞きした事があります。
縄文時代ではネアンデルタール人が死者を埋葬し、石器を副葬していたようです。
現在のお墓の形になったのは江戸中期からですが、故人様を敬う気持ちは古くからあり、たまたまその形が丈夫な御影石になったと言う事だと思います。
解答 05
日本のお墓の起源は、古事記に出てくる「千引石(ちびきいわ)」だという説があります。
伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と伊弉冉尊(いざなみのみこと)は、国生みを終えた後、次々に神を生みました。ありとあらゆる神を生んだものの、火の神を生んだことが原因で、伊弉冉尊は黄泉の国(地下にある死者の世界)へと旅立ってしまいます。
もう一度、伊弉冉尊に会いたいという思いを抑えきれなくなった伊弉諾尊は、黄泉の国へ降りることを決意します。しかし、黄泉の国は生きた者が来ることを禁じている死者の国。そこで、伊弉諾尊は伊弉冉尊の変わり果てた姿を見てしまうのです。伊弉冉尊は辱めを受けたと嘆き、魔物や千五百もの黄泉の国の軍勢を伊弉諾尊に差し向けます。伊弉諾尊は十拳剣(とかのつるぎ)で追い払いながら、ついに現世と黄泉の国の境界である黄泉比良坂(よもつひらさか)のふもとまで逃げ延びます。
そして、この境界を千引石という巨大な石で塞いでしまうのです。伊弉諾尊と伊弉冉尊はこの千引石をはさんで最後の会話をしました。つまり、千引石には、あの世とこの世を分ける境界としての意味があり、これが墓石の始まりといわれる由縁だと書かれていました。
解答 06
お墓には、ご遺骨の収蔵場所という機能のほかに、いくつかの役割や意味があります。家や家の継続性のシンボル・家としての弔いのシンボル。
解答 07
卒塔婆→五輪塔→和型
解答 08
諸説ありますが、日本神話の「千引岩」と仏教の「造塔供養」のあわさったものだと言われています。
日本古来の神話では、「イザナギ」が「イザナミ」を亡くした悲しみのあまり「黄泉の国」に向かい連れ戻そうとするが、その姿の恐ろしさに恐怖し「千引岩(千人で引かないと動かないほどの大岩)」をつかい、黄泉の国との境を閉じたという神話があります。これが日本人としてのお墓の起源であるとする人もいます。
もう一つ仏教ではお釈迦様が亡くなられたときに火葬(荼毘)し石を積み上げてできた塚(墳墓)を作りました。これをストゥーパといい現代の塔婆の語源となっています。(塔婆は本来、卒塔婆(そとば)と書き、これはストゥーパの音訳(中国語に翻訳する際に音に対し漢字を当てたもの)になります。)現存する世界最古のストゥーパはインドにあるサンチーの仏塔と言われています。
ストゥーパが日本に入ってくる際に中国を経由した際に高層化していきました。このストゥーパが日本に入ってきた際には皆さんもよく知っている「五重の塔」などになっていきます。これは本来お釈迦様のお骨(佛舎利)をまつっているという意味の建物になります(ただし実際には舎利の代わりに経典が収められている)。ですので塔をよくみると一番上の屋根の上にストゥーパの原型である半球があります。
これが平安時代などになると小塔建立供養や卒塔婆建立供養が盛んになりはじめます。そもそもは造塔供養・造仏供養などは病気平癒・鎮護国家などの祈願の為に多く建てられていますが、9世紀半ばには比叡山の慈恵大僧正がお墓として臨終までに石の卒塔婆を用意し、間に合わなければ木塔婆で仮安置しその下に火葬したお骨を入れ、四十九日までには石卒塔婆と建て替えよと指示されたとあります。
これが現在に伝わる石のお墓の最も古い記録ともいわれています。
つまり、「あの世との境をあらわす石」のお墓には「舎利を下に安置するストゥーパの意味を持つ台石」があり、「仏塔の意味を持つ頭石」があるものを建立することで供養になるという様々な意味を持つものになったのではないでしょうか。
解答 09
語源ついては諸説ありますが、「果処(はてか)」とする説や、「葬処(はてりか)」の略とされる説が有力とされています。他に有力な説としては、人の生死の間は遥かであることから「遥か」からとする説や、「儚し(はかなし)」とする説もあります。
解答 10
石で故人様を塞ぎあの世とこの世の境界を分ける意味としてできたのがお墓の由縁と言われております。
解答 11
墓という字は「土を覆いかぶせる」という意味を示す漢字だそうです。少なくとも弥生時代には死者を埋葬し、土を盛る習慣はあったといわれます。
解答 12
日本の神話でイザナギの命とイザナミの命という2人の男女の神が日本列島を作ったという伝説があります。女の神様であるイザナミの命がなくなった時その亡骸をイザナギの命は黄泉の国(死者の国)という地下道に運び入れました。その黄泉の国から死者がこの世に出られないように洞窟の入り口に大きな岩を置きました。それを千引岩といって現在の墓石の元になったと言われています。
解答 13
お釈迦様のご遺骨を納めた仏舎利塔が由来となっています。
解答 14
墓標を立てる風習は、平安時代に造寺・造塔が盛んとなって塔を立てる風習が現在のお墓の由来とされています。
解答 15
大昔、ネアンデルタール人が亡くなった者を埋めたまわりにお花を添えていたという跡があったそうです。その埋葬された場所が「お墓」になっていたということです。
また、昔は有力者が自分の権力の証として巨大なお墓をつくりました。エジプトのピラミッドなどがそうです。
そういうことからして、権力の象徴として利用されることが主であったようです。
日本では「古事記」という本に「千引岩(ちびきいわ)」のお話が載っています。「いざなぎのみこと」という男神と「いざなみのみこと」という女神が日本のいろいろな神様をつくりましたが、やがて「いざなみ」は火の神様を産んだのが原因で「黄泉(よみ)の国」へと旅立ってしまいます。黄泉の国というのは死者の国で、その国を見た者は二度とこの世に戻れないのですが、「いざなぎ」はどうしてももう一度「いざなみ」に会いたくて黄泉の国へ探しに行きます。そしてみつけた「いざなみ」はもう変わり果てた姿になっていました。「この姿をみかけてしまった者は生きて返せない」と言って「いざなみ」は逃げる「いざなぎ」を追いかけますが、なんとか逃げ切った「いざなぎ」は急いで大きな岩でその道をふさいでしまいました。そして岩の向こうにいる「いざなみ」と最後の会話を交わし別れを惜しみました。その岩が「千引き岩」で、「あの世」と「この世」を分ける境界になり、これが「お墓」の起源と言われています。また、この石(岩)をはさんで死者と会話ができる場所にもなったと言われています。
解答 16
諸説ありますが、日本神話の「千引岩」と仏教の「造塔供養」のあわさったものだと言われています。
日本古来の神話では、「イザナギ」が「イザナミ」を亡くした悲しみのあまり「黄泉の国」に向かい連れ戻そうとするが、その姿の恐ろしさに恐怖し「千引岩(千人で引かないと動かないほどの大岩)」をつかい、黄泉の国との境を閉じたという神話があります。これが日本人としてのお墓の起源であるとする人もいます。
もう一つ仏教ではお釈迦様が亡くなられたときに火葬(荼毘)し石を積み上げてできた塚(墳墓)を作りました。これをストゥーパといい現代の塔婆の語源となっています。(塔婆は本来、卒塔婆(そとば)と書き、これはストゥーパの音訳(中国語に翻訳する際に音に対し漢字を当てたもの)になります。)現存する世界最古のストゥーパはインドにあるサンチーの仏塔と言われています。
ストゥーパが日本に入ってくる際に中国を経由した際に高層化していきました。このストゥーパが日本に入ってきた際には皆さんもよく知っている「五重の塔」などになっていきます。これは本来お釈迦様のお骨(佛舎利)をまつっているという意味の建物になります(ただし実際には舎利の代わりに経典が収められている)。ですので塔をよくみると一番上の屋根の上にストゥーパの原型である半球があります。これが平安時代などになると小塔建立供養や卒塔婆建立供養が盛んになりはじめます。そもそもは造塔供養・造仏供養などは病気平癒・鎮護国家などの祈願の為に多く建てられていますが、9世紀半ばには比叡山の慈恵大僧正がお墓として臨終までに石の卒塔婆を用意し、間に合わなければ木塔婆で仮安置しその下に火葬したお骨を入れ、四十九日までには石卒塔婆と建て替えよと指示されたとあります。これが現在に伝わる石のお墓の最も古い記録ともいわれています。
つまり、「あの世との境をあらわす石」のお墓には「舎利を下に安置するストゥーパの意味を持つ台石」があり、「仏塔の意味を持つ頭石」があるものを建立することで供養になるという様々な意味を持つものになったのではないでしょうか。
解答 17
太古の神話の時代に死者が黄泉の国から這い上がって来られない様に石で蓋をしたのが起源と言われています。
解答 18
大名墓のように埋葬地に墓石を立てて供養地とすることが始まりで次第に一般人にもお墓が建てられるようになった。
解答 19
日本のお墓の起源は古事記に出てくる「千引石」という説があります。あの世とこの世を分ける境界としての意味があり、それが墓石の始まりと言われています。
解答 20
漢字「墓」の莫の部分は、太陽が草の中に沈んで隠れることを示す会意文字で「墓」の漢字には死者を見えなくする土盛の意味があります。
解答 21
日本では、平安時代に仏教が伝来する際石工の技術ももたらされました。ただ、当時は権力や富を持つ豊かな一部の層のみがお墓を立てられたそうです。庶民が墓石を建立するようになったのは江戸時代に入ってからといわれています。
解答 22
諸説ございますが、日本神話であの世とこの世を分ける境界線として出てくる千引石というものがあり、それがお墓の起源と考えられており
ます。
解答 23
日本では一般的にお墓に埋蔵し供養することによって、故人の魂が浄化され成仏するというように考えられています。
解答 24
お墓の言葉は『莫』と『土』の合体です。
解答 25
お墓は仏様をお迎えし、先祖を祀るところとされています。
解答 26
古事記にある、この世とあの世の境界石の千引岩(ちびきいわ)が由来です。
解答 27
生死は遥か(はるか)ということからお墓という言葉が出来たと言われていますが諸説ある様です。